作成日:2012/03/27
心の通信H24・3・20《生は思考が終わったところからはじまる》



生は思考が終わったところからはじまる

 東日本大震災から一年が過ぎたが、被害の甚大さは様々な問題を残し、被災者は苦難を強いられている。失われてしまったかけがえのないものへの悲しみは、一瞬のゆえに、未だに信じがたく、悔いが残るばかりである。先日あった人は、震災後、人生観が全く変わってしまったという。死が当たり前で、生はたまたまなのかもしれないと・・・。

 また、別の人は言う、やり場のない怒りはまるで自分の尾に噛み付いているように虚しい。

 原発破壊の脅威が侵略者によるミサイル攻撃やテロ攻撃によるのではなく、まさか巨大地震の大津波による最悪の事態とはなんという皮肉であろうか・・・。

 しかも、なお、関東直下の巨大地震、東南海巨大地震を危惧する声が現実味を帯びている。それは誰しもが思う傷口を逆撫でするような嫌な予感である。

 国土という身体が深く傷つき、汚染が深刻になってしまった今日といえど、これから先、何が来るか、はかりしれないけれども、また、いかに気の遠くなるような歳月がかかろうとも、現実を直視して、一歩一歩、歩みを続けるほかはない。

 いま、こういう時だからこそ、ブッダの声に耳を澄ませたい。

 それはこう響いている。

 「もしもあなたが、パン屋やカメラ店、書店、野外のレストランなど、たくさんの店が並んだ小さな町の街路を通り抜け、橋の下を過ぎ、婦人洋服店のわきを通って、別の橋を渡り、製材所のわきを通り過ぎ、それから森の中へ入って水の流れに沿って歩き続けるときに、自分の目と感覚をすべて完全に覚ましつつ、しかも精神に一閃たりとも思考をはさむことなく、通り過ぎてきたそれらすべてのものを見つめるならば、分離のないあり方とはどういうものか、おわかりになるであろう。その流れに沿って1、2キロほど歩きながら、しかも再び微塵も思考を働かせることなく、急な流れを見つめ、そのざわめきに聞き入り、その色彩を見、灰緑色の山を伝わって下ってくる流れを見、さらに再び一切の思考、一切の言葉を交えずに、木々を見つめ、枝を通して青空を見、そして緑なす葉群に目をとめるならば、そのとき、人と草の葉との関に空隙がないということがどういうことかおわかりになるであろう。

 もしもあなたが、またもや思考を何ひとつ働かせず、明るい紅色から黄色や紫まで想像しうるあらゆる色の花々が咲き乱れ、夜来の雨できれいに洗われた草が青々と豊かに生えている草原を通り抜けるならば、そのときあなたは愛とは何かがおわかりになるであろう。青い空、空高くいっぱいに風をはらんだ雲、あるいは空にくっきり輪郭を見せている緑の丘のつらなり、鮮やかな草としぼみかかった花をごらんなさい・・・これらのものを昨日の言葉を何ひとつはさむことなく見つめ、精神が完全に静まり返り、思考によって何ら乱されることなく沈黙し、そして観察者がまったくいないとき、そこには調和がある。それは人が花や雲、あるいは広々とした丘のつらなりと文字どおり合体するということではなく、むしろそこにあるのは自分と他者との区別のない全的な非在感である。市場で買った日用品を運んでいく婦人、黒い大きなシェパード犬、ボール遊びをしているふたりの子ども・・・・もしもあなたがこれらのものを、まったくの無言のうちに、一切の判断一切の連想をはさむことなく見つめることができれば、そのときにはあなたと他者との間のいさかいに終止符が打たれるのである。

 言葉や息考を介在させないこのような状態は、〈私〉と〈他者〉の区別が存在する領域や境界を待たない、精神の無量の広がりである。それは断じて想像上のものでもないし、空想の翼に運ばれているのでもなく、あるいは待望されていた何か神秘的な体験といったものでもない。それは目の前の花にとまっている蜜蜂や自転車に乗った少女、あるいは家にペンキを塗るためにはしごを登っている人と同じくらい現実的なことなのであり、そのときには分離状態の精神が引き起こすあらゆる葛藤に終止符が打たれるのである。それは観察者としての目を交えずにものを見、言葉の価値づけや昨日の基準を交えずにものを見ることである。愛のまなざしは思考のまなざしとは違う。一方は思考がついていけない方向に至り、他方は分離と葛藤と悲嘆に行きつく。悲嘆の方からはついに愛に至ることはできない。両者の間の距離を作り出すのは思考であり、思考はどうあがいても愛に至ることはできないのである。

 小さな晨家のわきを通り、草原を通り抜け、鉄道に沿って戻っていくと、昨日はもう終わったのだということに人は気づくであろう。生は思考が終わったところからはじまるのである。」 

 ブッダが指摘されるように、日々の自分の言動を支配しているものは、過去の思いと明日への慮りであり、それが思考と言われるものである。

 特に、それらの中心にあるものは常に人との関係によって形成された自我である。そしてその自我は絶えず思いの中心思想であり、過去・現在・未来は、常に人との関係性に対する慮りである。日々の心の喜怒哀楽、不安、恐怖、怒り等あらゆる思いが常にそこから発生してくる。こと、それ程に人との関係(人ばかりではなくあらゆる関係)は生きることにおいて抵抗の核となっている。その自分の精神の状態を刻々に凝視することで、過去の幻影を引きずらずに生きることがはじめて可能になる。自己凝視がどういうものか、それを実行することで自覚しなければならない。ただ、これを何らかの結果を期待する手段とすることは、その背景に恐怖心が働いているかぎり、自己凝視をしていないことに等しい。それは絶えず抵抗が沸き上がってくることで理解できる。あるがままとはまさにそういう厳しい現実からスタートしている。

 何時の時代にあっても、ブッダの指摘する課題は大きい。

 しかし、執着の原因である思考を見破り終わらせることは容易ではないが、それを日々、自己凝視して、時々刻々、新たな気持ちで生きることが大切であると思う。

萬歳楽山人 龍雲好久

 

 

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